戦後まもなくの早慶戦

1.「早慶讃歌」-早慶友情のカレッジソング-

作詞 藤浦 洸
作曲 古関 裕而

一.
讃えよう 声高らかに
輝く英知の 青空の
若い生命(いのち)の 太陽を
おお旺ん(さかん)なる 若人の時
情熱ここに燃えさかる
おお花の早慶戦
熱き心の若人 われら
レッツゴー

二.
謳おうよ 生命の限り
城北の森は みどり濃く
城南の丘に 風清き
おおさわやかな 若人の歌
ふたつの校旗 あざやかに
おお花の早慶戦
熱き心の若人 われら
レッツゴー
おお花の早慶戦
熱き心の若人 われら
レッツゴー

早稲田・慶應がそれぞれのプライドを懸け、母校の名誉にかけて火花を散らす早慶戦。試合では真剣勝負が行われる一方、両者のライバル関係には「好敵」とも称される深い友情が根付いていることはご存じだろうか。
この友情を象徴する曲に、「早慶讃歌—花の早慶戦—」がある。この曲は、早稲田の「紺碧の空」、慶應の「我ぞ覇者」の作曲者として知られる古関裕而の作曲、「三色旗の下に」などの作詞者として知られる藤浦洸の作詞により、昭和43年に作られた曲である。昭和43年はというと、早慶ともに学生の関心の多くは学生運動へと向けられていた時代。この状況を打開すべく、早慶で肩を組んでともに歌える曲を作る機運が高まり、「早慶讃歌—花の早慶戦—」が誕生した。
「早慶讃歌—花の早慶戦—」は、昭和43年5月23日に東京体育館で行われた「早慶フェスティバル」という催しにより盛大な発表会が行われた。早慶両校は当時、早稲田は「稲穂祭」、慶應は「ラリー」という形で、早慶戦の前夜祭を別々に行ってきたが、「早慶讃歌—花の早慶戦—」の発表にあたり、前夜祭を特別に早慶合同での開催とした。この早慶合同の催しについて、作詞者の藤浦洸は「大正から昭和初期の時代に学生生活を送った者にとっては信じられないくらいの驚き」と語り、早慶間の友情の高まりについて感慨深げであった。また、作曲者古関裕而は、次のように語った。
「私は早稲田を出たわけではありませんが、「紺碧の空」以来多くの応援歌を作っていますので、早稲田には深い愛着を感じています。昔から早稲田と慶應とは互いにライバルであると同時に良き友であります。この歌によって、それがなお一層深まることを望んでやみません。」
野球早慶戦では、試合開始の約1時間10分前に、早慶内野外野、計4つの応援席で同時に演奏・斉唱する。慶應の応援席で指揮するのは早稲田の応援部員、早稲田の応援席で指揮するのは慶應の応援指導部員である。神宮球場全体で肩を組んで斉唱される「早慶讃歌—花の早慶戦—」は壮観であるとともに、早慶の友情とその仕合せを感じさせてくれる。(酒井俊輔)

早慶讃歌の歌詞と音源は早稲田大学応援部のウェブサイトからご覧いただけます。
校歌・応援歌紹介 | 早稲田大学応援部

2.早慶戦勝利の歌

「早稲田の栄光」早慶戦勝利の歌

栄光はみどりの風に
花ひらく若き日の歌
重ね来し歴史尊く
承け継ぎて輝く早稲田
早稲田 早稲田 我等の早稲田

早慶戦試合前、校旗入場の時に演奏され、慶應に勝利した時に肩を組んで歌う歌、それが「早稲田の栄光」である。

「早稲田の栄光」のより詳しい説明はこちらのウェブサイトからご覧いただけます。
戦後早稲田を代表する学生歌「早稲田の栄光」 – 早稲田文化 (waseda.jp)

また、歌詞と音源は早稲田大学応援部のウェブサイトからご覧いただけます。
校歌・応援歌紹介 | 早稲田大学応援部 (w-ouen.com)

「丘の上」早慶戦勝利の歌

丘の上には空が青いよ
ぎんなんに鳥は歌うよ歌うよ
ああ美しい我等の庭に
知識の花を摘みとろう

早稲田に勝利した時に、肩を組んで歌う歌、それが「丘の上」である。歌詞には、「慶應」の二文字は無く、勇ましさもない。そしてメロディもその牧歌的な歌詞の情景を裕かにしている。まさに、戦い終わって、塾の友と共に、勝利の喜び、そして塾の一員であることの喜びを味わいながら歌うのにぴったりの歌である。

「丘の上」は、予科会の塾生達の発案で、「若き血」誕生の翌年、昭和3年に作られた。作詞は、仏文科卒業の詩人青柳瑞穂、作曲は、ドイツ音楽一辺倒の風潮の中でフランス音楽に深く通じていた菅原明朗である。
当時の三田新聞は「新作の応援歌によって昨秋の慶早戦の感激を忘れかねている一万の塾生に素晴らしい吉報がここに新しく生れた」(9月15日号)と歌詞の完成を報じた。次の号では「突如前号紙上に発表された新作カレッジソングは異常なセンセイションをひき起し、今や緊張裡に作曲の完成が待たれているのである」と報じている。完成した曲が発表されたのは11月17日の秋季予科大会であったようだが、従来の応援歌とは全く異なる作風は、大きな反響を呼んだ。六大学野球において、十戦全勝での優勝を果たした直後のことでもあり、まさに発表の時から、勝利の歌として、今日まで歌い継がれることになったのである。
後に、青柳は当時を振り返って、「ある時、「丘の上には空が青いよ」の一句がうかぶと、あとはスラスラと出来てしまった。ただ、空が青いよ、などという、当時としては軽すぎる調子が、学校の歌としてはどうかという不安はあったが、こうして自然に生まれた調子はどうすることも出来ず、万一予科会で難色を示したとしても、私にはこれ以外に作れないような気持だった」という。また、「『丘の上』は、三田の山に伝わる牧歌とか、民謡というものになってくれるのが作者の念願である。牧歌や民謡に作者がないように、『丘の上』の唄の作者も何時かは忘れられるようになってもらいたい、という意味のことをその時わたしは喋った」と語った。
三田の山上も、山上からの景色も、すっかり変わった。二番に歌われた芝浦、品川の海ももはや見られない。しかし、大いちょうは、ゆるやかに時を刻みながらもそこに一貫して在り続けている。そして「丘の上」を歌う塾生・塾員の心情は今も変わらない。(「大公孫樹と丘の上」『慶應義塾歴史散歩キャンパス編』(慶應義塾大学出版会)を改変)

2018年の春、三田山上での祝賀会 皆で肩を組んで歌う「丘の上」の映像です。

合唱は、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団の定期演奏会動画をYouTube上で視聴できます。
https://www.youtube.com/watch?v=sIzovN8uIg8

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